DrPepaoの時計と映画と食べ物日記

時計を中心に映画やファッションなどについて書いていきます。

洋画は字幕が圧倒的にオススメ

こんばんは、Pepaoです。

相変わらず、欧米の映画中心に観ています。

 

洋画を観るとき、皆さんは字幕、吹替、どちらでご覧になりますか?

Pepao はほぼ字幕です。特に英語圏の映画の場合、吹替で見ることは成人して以降は一度もないと思います。

 

俳優の声の演技がわかることが1番の理由です。

吹替の声優さんも頑張っているとは思いますが、演じている元の俳優には負けてしまいます。

感動に溢れた声、絶望に打ちひしがれた声等。これらがダイレクトに伝わってきます。最大の醍醐味と言って良いでしょう。

 

これは、字幕なしでもいえることですが、リスニングができる人の場合、吹替で見るメリットはあまりないでしょう。

吹替や字幕(訳文のこと)は原語からかなり意訳されています。

例えば、

原語で「そこにあるだろ?コピ・ルアクが手に入ったんだ。君もぜひ飲むといい。ミルクは入れずに。」といったセリフがあるとします。

字幕や吹替ではおそらく「コーヒーの箱がそこにあるから、君ものみなさい。ブラックでいいな。」といった風になると思います。

コピ・ルアクといった、映画を観ている多くの人にとって聞き馴染みのない言葉は「コーヒー」に置き換えられ、「ミルクを入れずに。」の意味がわかりにくく翻訳されてしまうのです。(コピ・ルアクは香り高いコーヒーなので、その香りをスポイルさせないためにミルクを入れないで飲んで欲しいという話者の意図が伝わりにくくなっています。単に探偵物語の主人公のようにブラック派を押しつけているだけにも捉えられます。)

吹き替え、字幕の役割は日本語化だけではありません。日本で馴染み深くないものをわかりやすく言い換えて感情移入させやすくするという役割もあります。

しかし、多少聞き取れる人にとっては、余計なお世話でしかありません。

 

ほかだと日本語特有の人称表現が出てくるのが雰囲気をぶち壊すとPepao は感じます。

例えば、

老人が「I」といえば、「わし」となり、ヒルビリーは「おら」などと表現されるケースが見受けられます。

また黒人キャラが出てくるとたいてい「俺」か「おいら」になり、白人のエリートは「僕」か「私」です。

これなんだか変だと思いませんか?特に「わし」や「おいら」、イマドキの邦画や国内ドラマで、こんな人称表現きいたことありますか?(北野武氏を除いて。)

キャラの使う人称って、キャラに色をつける役割だと思っています。元の映画にない脚色をするのは冒涜ではないかとPepao は感じます。

 

そんなこんなで、基本的に字幕または字幕なしで観ています。